1995年は、第二次世界大戦が終結して50年という節目の年にあたります。
埼玉県では、これを機会に、戦争の悲惨さを改めて心に刻み、恒久平和への
決意を新たにするとともに、平和なふるさと埼玉と世界の平和の実現に向けて、
埼玉県としてふさわしい記念事業を実施することといたしました。
このオリジナルアニメーション映画「青い目の人形物語」の制作はその一つです。

青い目の人形物語

【あらすじ】 1927年(昭和2年)アメリカから日本の
多くの学校や幼稚園に友情の人形として、青い目の人形が贈られました。 しかし、戦争がはげしくなると多くの
人形が、敵国人形としてこわされたり、焼かれるなどの
運命をたどりました。そうしたなかで、千夏と孝太は
人形を救おうとします。
【詳しいものがたりのあらすじ】
1929年(昭和4年)のある日、都心を走る車に、一人の老人が乗っていました。近代日本の産業の
発展と国際親善につくした埼玉県出身の渋沢栄一その人でありました。
栄一は、隊列を組んで行進して行く軍隊を見ながら、ふところから一枚の写真を取り出し、「ギューリックさん、日本はこれから悪い時代になりそうです。」とつぶやきました。ギューリックは、悪化
しつつある日米のきずなを保とうと「青い目の人形」を贈ることを日本に提案した人物でした。
「お人形たちが、いじめられる時代にならないといいんですがね・・・」栄一は、写真のギューリックにつぶやいたのでした。
1937年(昭和12年)日中戦争が勃発し、日本は、中国との全面戦争へと突入して行きました。
そして、軍国主義一色の1943年(昭和18年)、埼玉県越谷の大沢国民学校の子どもたちにも暗い影が迫りつつあったのでした。
校舎のはしにある職員室のとなりに、三畳ほどの宿直室がありました。
今日は、新任の女教師田中好江が宿直をし、子どもたちの答案の採点をしています。そのそばでは、教え子の和寺千夏とけんか友達の斎藤孝太が遊んでいます。
千夏は、小さな箱を見つけ開けてみました。
「わ-可愛い。」
それは、田中先生が6年生のとき、アメリカから贈られてきた青い目の人形でした。
千夏は、この人形が、自分の名と似たワーテラという名であることを知り、ますます気に入ってしまいました。
田中先生は、二人に当時のことから今までの青い目の人形の置かれた立場を話し、
「人形もこんな時代でかわいそう」と涙ぐみながら、このことは他の人に絶対話さないと約束させるのでした。
戦況は日ましにきびしくなり、子どもたちは、チャーチルやルーズベルトの似顔絵をつけたワラ人形を木刀でたたいたり、竹槍で突くといった訓練を受けるようになっていました。
ある日、千夏は両親を亡くして疎開してきた同級生の玉枝をこっそりと誘い、宿直室で青い目の人形を見せるが、その場を老教頭に見つかり、青い目の人形の存在が表ざたになって、職員会議が開かれることになってしまいました。
職員会議では、昨日の「たたき壊せ青い目の人形」という新聞記事をめぐってけんけんがくがくの議論が繰り広げられました。
担任の好江は「お国から指示があるまで自分にあずからせてほしい。」とお願いするのでした。
孝太は、その様子を盗み聞きして、千夏たちにつたえました。千夏は、たたかれたり壊されたりするワーテラを思い、居たたまれず人形を抱いて近くの駅に逃げ出してしまいます。
しかし、駅に向かう途中で千夏は憲兵(けんぺい)に出会ってしまいました。憲兵は「敵国のものはすべて排除する。」と言い、人形を取り上げてしまいました。
雨が降りだし、人形の顔に雨つぶがあたり、ワーテラも千夏も泣いているようでした。
そこに、千夏を捜していた孝太や好江がかけつけました。
田中先生は憲兵に謝りながらも、必死に「その人形は私が責任をもって管理するよう学校から言われています。ですから、私に人形を、人形をお渡しください。」とお願いするのでした。
すると憲兵はなにも言わず、人形を放りなげて、立ち去ってしまいました。
「どうして、戦争だと青い目のお人形さんと仲良くしちゃいけないの?」と、千夏たちは泣きながらうったえるのでした。
【青い目の人形とは】
青い目の人形は、日米関係が険悪化するなかで、親日家の宣教師シドニー・ルイス・ギユーリック博士と渋沢栄一が中心となり、人形をとおして相互の友情と交流を図り、日米両国民の理解と親善を深めようとして日本に贈られた人形で、善意の人々の想いを抱いた米国からの「平和の親善大使」でした。
しかし、太平洋戦争が始まると、敵性人形として各地で焼かれたり、壊されたりして、悲しい運命をたどるものが多くありました。




